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◆ この夏に目を通して印象に残ったものを何冊か紹介しておく。30~40冊ほどのなかで、つまらないものが7割、イマイチが2割、「努力の結晶」を感じる本が5分、唸った本が5分。これはいつもの配分だ。あとは毎月十数~数十冊の献本がある。ぼくの好みを見計らってのようで、おもしろい本が送られてくることが多い。◆ まずその献本から。竹倉史人の『土偶を読む』(晶文社)は土偶を植物像から読み解いて、ハッとさせられる。嗅覚認知科学者A・S・バーウィッチの『においが心を動かす』(河出書房新社)はこれまでの香りの美学や匂いの人類学を一歩出るもので、匂いが脳のしくみを変更してきたことを告げる。内藤廣の『建築の難問』(みすず書房)は真壁智治の食い下がりに答えた内藤独特の構築意志が滲み出ていて読ませた。◆ 同じく献本で、福元圭太の『賦霊の自然哲学』(九州大学出版会)はフェヒナー、ヘッケルらの精神物理学を案内して、なにかと評判が悪かった生気論を復権させて浩澣。犯罪研究の管賀江司留郎による『冤罪と人類』(ハヤカワ文庫NF)は、調査する者にひそむ道徳感情が事態を誤った方向に展示させていく例を暴いたもので、広く読まれるといい。驚くべき内容だったのは武田梵声の『野生の声音』(夜間飛行)だ。著者のことは知らなかったが、人類の音楽舞踊史をホカヒビトの視点で解きまくっていて、瞠目させられた。ダントツ本である。文脈は不整脈だったけれど、見方が凄い。いつか千夜千冊したい。◆ では、ぼくの夏の読書メモから。48歳で自殺したマーク・フィッシャーの『わが人生の幽霊たち:うつ病、憑在論、失われた未来』(Pヴィアン)は、あらためて憑在論(hauntology)の切れ味を念押しして、憑依を許容するオントロジーを浮上させて、いささかグノーシス。いまや不気味なるものの立ち往生こそ、21世紀思想のド真ん中に突き出てくるべきだろう。李珍景(イ・ジンギョン)の『不穏なるものたちの存在論』(インパクト出版会)も、不気味や不穏に焦点をあてたもので、「心地よいもの」をみんなで褒めあう最近社会に矢を放っている。「最適者」なんて統計的平均の中にしかいないのだ。アフガニスタンにとってのタリバンの支配をどう見るか、欧米の戸惑いにすべては顕著だ。◆ ドイツの現代思想を研究していた戸谷洋志が『Jポップで考える哲学』(講談社文庫)を書きおろした。西野カナ「会いたくて会いたくて」、aiko「キラキラ」、東京事変「閃光少女」、ミスチル「名もなき詩」、RADWIMPS「おしゃかしゃま」、AI「Story」、いきものがかり「YELL」などを採り上げて、これにフィヒテやベルクソンやバタイユをぶちこもうという安易な手立てなのだが、Jポップの歌詞の大半が20世紀の佳日の哲学をフツー言葉でなぞっているのが見えて、そこがぞっとした。◆ 古典も、煎茶をゆっくりいただくようにたいてい目を通す。これはコーキコーレー・アスリートのお作法に近い。8月はプロティノスの『エネアデス』(中公クラシックス)とニコラ・フラメルの『象形寓意図の書』(白水社)。新プラトン主義とヘルメス学の古典だが、困るほどに初々しい。◆ 最後に、ぼくも少し登場する1冊を。稲葉小太郎の『仏に逢うては仏を殺せ』(工作舎)だ。吉福伸逸の日々を追いかけたもので、十川治江が編集した。たいへん懐かしく(登場する100人くらいの半分が知り合いでもあり)、また読んでいて何度も胸が詰まった(後半の69歳で死んでいく覚悟の準備が…。)。早稲田やアメリカでのジャズ・ベーシストとしての姿は初めて知ることもあって、当時のカウンターカルチャーごと蘇ってきた。いつか、同世代の吉福、松岡、田中泯、杉本博司の4人をパラに追いかけた一冊ができると、きっと「不気味」と「不穏」が錯綜するようにひしめいて、さぞかしおもしろいだろうね。
2021・8・26(木)
◆ コロナ・パンデミックの第5波とオリンピックの東京開催がまっこうから交差するという異常な事態だった。無観客、無歓声、無騒動。世界中から押し寄せる客もゼロ、チケット購入に当たった日本人もゼロ。アスリートと関係者以外は競技場にはいなかった。テレビ観戦だけが室内で進行し、実況アナウンサーが活躍し、日本テレビは増収増益になった。◆ 開催のために投下した多額の資金はかなり空転しただろう。施設は残って再利用できるが、いろいろムダな経費を惜しみなく費い、世の中には「空費」というものがあることを教えた。コロナ対策でアベノマスクや援助金が配られたことが思いあわされる。◆ では、お待たせしました。みんなから「松岡さんは開会式をどう思われましたか」と何度も訊かれるので、一言。開会式だけで165億円なのだ。◆ 言うまでもない、開会式も閉会式は信じがたいほどサイテーだったね。「日本」を見せそこね、タレントに媚びた。ページェントというもののサイズがとんちんかんなのだ。「代」がわかっていない。とくに小芝居を入れる演出が万事を低俗にした。劇団ひとりではボードビルはつくれない。◆ ラーメンズはデビュー後の5年ほどはおもしろかったが、小林賢太郎には「巨きいもの」はつくれない。阿弥陀来迎くらいを演出できなくちゃ。まあ、MIKIKO(水野幹子)が電通のやりかたに業を煮やして降りたのが、すべてを語っている。電通丸投げは、なんであれ日本をダメにする。◆ 総じて、多様性と持続可能性などというグローバル・コンセプトに縛られすぎたのが、最大の敗因だ。「愛の讃歌」を歌ってみせる必要なし(春日八郎を堂々と歌ってみせてほしかった)。野村萬斎・山崎貴・佐々木宏らを当初の演出トップに据えたのもまちがい。ぼくも声をかけられたが、早々に辞退した。◆ もうひとつ、選手からボランティアにいたるまで、コスチューム・デザイン(山口壮大ほか)がひどかった。スカパラ演奏中のパフォーマーのためのデザイン(森田晃嘉)も気の毒。着物を訴えられないとしたら日本はオワリだ。『日本語が亡びるとき』を読んだほうがいい。ただし、アスリートのためのユニフォーム・デザインは世界中の誰がやっても難しいものだから、とくに気にすることはない。◆ 開閉会式で記憶にのこったのは、森山未來の3分ダンス、ドローンの空中エンブレム、長島の歩き(松井はダメだった)、佐藤オオキの聖火台、佐藤直紀の表象式音楽、タカラジェンヌたちの君が代、そのくらいかな。花火がイマイチすぎた。全国各地で連続的に数発ずつ打ち上げればよかったのに。◆ ついでながらちゃんと見ていないけれど、阿部詩が強かわいくて愛らしかった。田村亮子の再来だが、「田村で金、谷でも金」は夫婦愛で、詩はお兄ちゃん愛。こちらのほうがいとおしい。兄妹ではバレーの石川祐希・真佑もいい。ぐぐっときたのが水泳の大橋悠依、女子ソフトの上野・藤田、柔道の大野・素根・永瀬・新井、サーフィンのカノア、バレーボール男女、5000メートルの田中希実、野球の山田・森下・千賀、サッカーの三苫・吉田、ハンドボールの土井レミイ、バドミントンの渡辺勇大、卓球の水谷の兄貴ぶり、女子レスリングの川井友香子あたり。フェンシングは見なかった。空手の清水希容には勝たせたかったねえ。◆ 以上、今回は「ほんほん」ではなく「にほんにほん」にしました。
2021・8・16(月)
◆ やっと酸素ボンベを使わないですむようになってきた。ただし、声を出して話すとまだまだ息が切れる。ハーハーする。ハーハーすると言葉づかいが変調をきたす。それでみなさんに心配をかける。「松岡さん、ヤバクない?」。◆ 思考はアタマの中の「ワードとフレーズのオーケストレーション」で指揮棒を振っているのだから、喋ると息が切れるからといって、言葉がもつ意味のストリームがひどく変形するわけではないはずなのだが、実際には「語り」がきれぎれになると、思考もふだんとは別の断続や連接をおこすのである。思い当たることは、いろいろある。◆ 少年時代に吃音で悩んだこと、緊張するとうまく喋れなくなること、久々に京都弁で話題を話すとアホになること、睦事にはふだんの言葉が出てこないこと、手術後の数日は言葉が連続できないこと、猫たちと話すと赤ちゃんのようになること、森や林や庭のテラスで会話をしていると平易な話が多くなること‥‥。こういうこととカンケーがあるのかどうか。カンケーあるに決まっている。言葉は体の函数なのである。◆ さて、オリンピックとともに新型コロナの第4波が猛威をふるいそうになってきた。デルタ株などの変異ウイルスの強力な蔓延によると言われている。体内潜伏時間も2日ほど短くて、バンバン活性化するらしい。なぜ、かれらはわれわれの体を好むのか。そこで変異をおこすのか。ズーノーシスとマイクロバイオームを温床にしてきたからだ。これはいまさらのことではない。◆ 『土と内臓』(築地書館)という本がある。デイビッド・モントゴメリーとアン・ビクレーが書いた。アレルギーやストレスが食べ物を通した「内臓からの信号」に左右されていることを告げていた。われわれの「調子」の多くが土にひそむ微生物にカンケーしているという本だ。モントゴメリーは『土の文明史』(築地書館)の著書でもある。大農場だ、整地だといって土壌をやたらにかきまわすな、それこそが文明をおかしくさせるという名著で、ユヴァル・ハラリやマルクス・ガブリエルを読むより、ずっと文明的な説得力があった。◆ モントゴメリーが注目するのは、土と体に共通するマイクロバイオームである。土の文明を左右しているだけでなく、われわれの体にひそむ腸内フローラなどのマイクロバイオームがわれわれのさまざまな「調子」を左右しているという話だ。こうした微生物がつくる「調子」の上にコロナ・ウイルスも乗ってくる。◆ 土と体の両方にまたがる微生物の隠れた役割については、ロブ・デサールとスーザン・パーキンズの『マイクロバイオームの世界』(紀伊国屋書店)などがわかりやすく説明している。この本の第5章「私たちを守っているものは何か」にとりあげられている「ワクチン、免疫系、植物と動物の免疫、抗菌剤の正体」などのくだりは、必読だ。◆ さらに重大な警告を発しているのは、微生物学のマーティン・フレイザーが書いた『失われてゆく、我々の内なる細菌』(みすず書房)だろう。人体には細胞の3倍以上の細菌が活動している。ということは、われわれを構成している細胞の70パーセント以上がヒトに由来しないものだということだ。かれらはヒトに由来しないけれども、ヒトと共生してきた独自の有機的な群れなのである。われわれは3歳~5歳くらいで、そのヒト由来でない細胞を組み込んだ構成によって「自分」をつくったのである。ピロリ菌などが有名になった。◆ 最近、「ポスト・コロナ」ということを合言葉にするきらいがある。ぼくも「ポスト・コロナ社会はどうなると思われますか」とよく訊かれる。空語ではないけれど、「コロナ以前に戻る」とか「コロナ以降を展望する」とかと、あまり設定しないほうがいい。地球系と生命系とわれわれ系はずっとまじってきたのだから、その「まじり」を研究する気になったほうがいい。◆ それにしても肺ガンで肺の一部を切除したくらいでハーハーし、ハーハーすると発話に損傷をきたすというようでは、ぼくもナンボのものかということだ。タバコと「復煙」するのではどうか。それはもっとヤバイというなら、俳句のように短い言葉で話をするというのでは、どうか。
2021・7・22(木)
◆ コロナ収まらず、菅もたつき(河野いんちき)、オリンピック近づき、中国暴走(ロシア眈々)、イギリスあやしく(ドイツ青息)、わが母国は万事よそよそしく、万端めくれあがって処置なし。そんな6月の日本列島が大雨に苛まれるなか、ぼくは新たな角川千夜千冊エディションを「アートをめぐる一冊」にするため、入稿原稿を仕上げていた。さっき初校ゲラの赤を入れて、太田に渡した。◆ その太田香保が組み立てている千夜千冊エディション・フェア「知祭り」が、いま全国70書店に及んで始まっている。当の本人は面映ゆくてもぞもぞするしかないのだが、各地のイシス編集学校師範・師範代たちがすばらしいボランティアを推進して、各書店の店長や担当者とみごとなコラボを展開してくれている。先頭を切った九天玄気組の中野組長チームと名古屋曼名伽組の小島組長の展示が先行モデルとして効いた。おかげで実売も土用のうなぎのぼりのようだ。◆ 千夜千冊エディションはぼくの「本読み」に関する集大成である。これまで書いてきた千夜千冊既存原稿をテーマによって組み上げ、並べなおし、ほとんどにその構成によるエティションをかけ、仕上げている。これまで20冊が刊行されてきたが、おそらくこの倍はつづくだろうと思う。どう構成してきたのかというと、一冊ずつ全力を傾注する。◆ 次回配本の『資本主義問題』でいえば、60~70夜くらいの候補から、A案・B案・C案というふうに絞る。絞り方で、訴える内容がそうとうに変わる。まあ、編集とはそういうものだ。◆ 結局、第1章が金本位時代からの貨幣の意味を追った「マネーの力」、第2章が市の発生や複式簿記やオークションや株式会社のしくみを解読した「資本主義の歯車」、第3章がケインズ、ハイエク、ウォーラーステイン、フリードマンらの経済学者がどんなリクツをつくったのかを並べた「君臨する経済学」、第4章がスーザン・ストレンジのマッドマネー論やソロスの投資論から反グローバリズムを訴えたヴィルノやカリニコスの反骨までの解説で組み立てた「グローバル資本主義の蛇行」というふうになった。c案に辿りつくまでフーフーだ。◆ この並びを自分でもまた読みなおしながら、いろいろ加筆訂正や推敲をしていくわけだ。それでもたいてい一冊には収まらない。『資本主義問題』では、リスクとオプションの問題、金融工学関係、宇沢弘文、中谷巌、IMF、地域通貨や仮想通貨、アート市場については別のエディションにまわした。◆ 実はこういう作業をしながら、何十回となく反省もする。こんな「読み」では甘かった、ああ、あのことを触れなかったのはやっぱりまずかった、そうか、こういう関連書もあったのかと、いちいち反省と訂正に見舞われる。毎回、どんなカバーデザインや口絵でいくのかということも大事な仕事になる。町口覚チームがとりくんでいるのだが、毎度絶妙な工夫をしてくれる。◆ もともと千夜千冊を文庫化するにあたっては、和泉佳奈子と角川の伊達百合さんが当初の路線を組んでくれたのだが、和泉が「町口さんでいきたい」と言ったのが決定的だった。用紙選定からとりくんでくれた。◆ こういうことをしながらも、まだ千夜千冊は少しずつウェブの中で増殖しつづけているのだ。最近はいままで封印していた神秘主義やグノーシス主義やヘルメス思想にまつわる重大な本にとりくんでいる。ここにはカバラやスウェーデンボルグやルネ・ゲノンなども入ってくる。またアートやファッション系譜の本もふえる予定だ。◆ こちらはこちらで毎夜の図版作成のために、寺平賢司をキャップとする編集学校チームが動いている。読み合わせ会も東京、各地、松岡正剛事務所主宰など、いくつもが継続されている。それを聞いていると、ぼくの「読み」をさらに展開した新たな「読み」が次々に生まれていくのを感じる。千夜千冊はもはやぼくの専任仕事ではなくなっているといったほうがいい。
2021・7・9(金)
◆ 左肺上葉部の腺ガン摘出手術は無事おわりました。2度目だったので警戒していなかったのですが、術後の胸がけっこう痛いので、鎮痛剤を3種、一日3回のんで紛らわせています。こんなところに綴るのは横着ですが、何人もの方々からお見舞いのメッセージや祈祷のお札をいただき、ありがとうございました。励みになりました。築地の病院でみなさんのことを思い出していました。一人ずつにお礼ができないままで、ごめんなさい。◆ おかげで、いまは毎日、仕事場に行っています。ただし、まだ万全というわけではなく、有酸素呼吸力に少し難があるようで、自宅と仕事場に酸素ポンベが置かれ、ときどきこれで酸素補給をしてます。そういう姿はさすがに情けないもので、何か、がっかりさせられます。喋るときにハーハー息が切れるのも困ったもので、意図のアーティキュレーションが分断されてしまいます。◆ そのせいかどうか、このところ読書アビリティに変化が出ているように感じます。ページを開いて読み出したり、ここぞと読みこんでいくときの速度や深度に、ばらつきが出るのです。同じ読書姿勢を続けにくいのも要因でしょうけれど(すぐ背中が痛くなる)、こういう認知曲線に少しでも狂いが出てくると、内角低めのボールに手が出にくくなったり、バックハンドの打ち損じが出たりするのと同様で、いろいろな「読みの不如意」が出てくるのですね。◆ 言葉をめぐる技能というものは、もともとたいそう微妙なものです。言語は、一方では文字や単語や概念の出来にもとづいてリテラルな言葉づかいを成立してきたわけですが、他方、発語する言葉のすべては必ずや「呼吸を吐くとき」に成立しているので、呼吸のリズムや呼吸量とともに発展してきました。この、息を吸いながらオラルな言葉を喋ることができないということ、息を吐くときだけ言葉が出るという片方性は、われわれに意外な言葉のアビリティの制限をもたらしました。◆ 蝉や鳥とちがった方法で、哺乳動物が吠えたり唸ったりするようになったとき、すでに吐気とともに獣声を出すしくみができたのでしょう。それがヒトザルがヒトになるにつれ、咽喉や舌や歯や鼻孔のぐあいで複雑な言葉を操るごとく喋れるようにしたのでしょう。そうではあろうものの、このこと自体が曲者なのです。言語文化にいろいろな片寄りをつくったのです。◆ 最初、われわれの呼気言語は、赤ちゃんや幼児の喃語のようにアーアー・ウーウー・エーエーといった母音中心の言葉でした。そこにク音やガ音やツ音などの子音をまぜる工夫が加わって、だんだん複雑な言葉を発音できるようになるのですが、このとき各地の風土や気候や食事による影響が出て。それが口唇事情に微妙な変化をもたらします。◆ こうして各部族・各民族の言葉に独特の違いが出てしまったのです。それぞれの母国語(祖語)が異なるものになったのです。それもフランス語やドイツ語やノルウェー語の違いだけでなく、同じ日本語でも津軽弁と名古屋弁と広島弁の違いもおこします。これは方言というより、生きた「土地語」です。けれども、ここが大事なところですが、本人たち(われわれ)には、そういうことは意識(自覚)できません。自分が喋っている言葉の特徴が意識できないということは、おそらくは人間の意識や自我の重大な特質をつくりあげた重大な要因になっているように思います。◆ そこへもってきて、世界中で国語教育が始まり、国語それぞれに標準語(基準語)か確立されました。これは自分の喋っている言葉とはまったく違うもので、先生やアナウンサーといった「言葉のアンドロイド」がつくりあげたものです。呼吸もプロのものです。これでますます「自分の言葉」の特徴が見えなくなったはずです。◆ 近代以降、リーディング・スキルがすっかり「黙読」中心になったことも、自分の言葉づかいに意識を重ねていけない理由になっていると思います。黙って新聞や本を読むのは、もともとの言葉の呼吸リズムを無視して読むということで、「文字と目の直結」が呼吸という潜在力を度外視させているということなんです。はっきりいえば、黙読は「内語」の知覚から呼吸性を奪ったのですね。◆ おまけに最近はツイート文化の普及によって、相手の口語的なセンテンスを目で読んで、それに対する反応を親指で口語的発信する奇妙な慣行が広がりました。喋ってもいないのに、口語を親指送信するのですから、これはかなりメチャメチャです。いったいどんな複合知覚がこれからの言語文化をつくりあげるのか、容易には想像がつきません。◆ まあ、こういうことをあれこれ左見右見してみると、肺機能が少し低下して、ぼくのリーディング・スキルに変化が生じているというのは、ホモ・サピエンスっぽくて観察に足ることだということになるかもしれません。そんなこともあって、先週は山極寿一さんのゴリラ本を堪能していました。
2021・6・5(土)
◆ 新たに三井寺の長吏に就任された福家俊彦さんのはからいで、国宝の光浄院客殿に熊倉功夫さん、樂直入さんを招いて語らい、そこに石山寺の鷲尾龍華さんらが加わって、煎茶の茶事まがいを遊んだ。中山雅文・和泉佳奈子が準備した。広縁をおもしろくつかった灌仏会もどきの室礼は横谷賢一郎さんの趣向によるもの、福家俊孝さんが三井寺茶の点前をして、叶匠寿庵の芝田冬樹さんがお菓子を用意した。◆ 光浄院はぼくが大好きな書院造りで、桃山がいっぱいだ。付書院には巻紙に硯、筆を置いて、夕刻にみんなの寄せ書きをしてもらった。久々に愉快な半日だったのだが、前日、大津歴博で義仲寺の蝶夢がなしとげた「芭蕉翁絵詞伝と義仲寺」の展示を見て、その編集ネットワークの成果に大いに驚いた。よくぞ蝶夢は近江の俳諧文化を芭蕉に託してまとめたものだと感服した。露伴が絶賛していた理由がやっとわかった。芭蕉が墓を近江にしたかった理由も納得できた。◆ 林頭の吉村堅樹の乾坤一擲で始まった『情報の歴史』21世紀版がこのたびついにまとまって、4月半ばの発売にこぎつけた。編集工学研究所初めての出版物で、それも520ページの大冊だ。既存版が1995年まででおわっていたのが、2020年までのクロニクルがずらり出揃った。イシス編集学校の諸君がさまざまにかかわって仕上げたので、感激一入であろう。デザインは穂積晴明が担当した。穂積はタイプフェイス感覚に富む若者だ。◆ 同じくイシス編集学校の米山拓矢君が、こちらは1人で1年以上をかけて構成してくれた『うたかたの国』が工作舎から刊行され、はやくも2刷になった。新聞雑誌・ウェブの書評も多く、評判がいい。編集作業には米沢敬君がプロの技を発揮して、日本の詩歌を組み上げた「セイゴオ・リミックス」として手ごたえのある仕上がりにした。ぼくの著作は他人の手によって編集される(リミックスされる)ことが少ないけれど、こういう出来のいい編集構成をされてみると、けっこう気持ちがいいものだ。令和にも蝶夢がいたわけだ。◆ 実は、教科書・学参カンケーの某版元で『試験によく出る松岡正剛』(仮題)という企画も秘密裏にすすんでいるのだが、これは「周辺から松岡を彫り込む本」になりそうで、ここには太田香保のもと、またまたイシス編集学校の諸君が何人もかかわってくれるらしい。お題に強い連中なので、きっとおもしろい本づくりをしてくれるだろう。◆ 千夜千冊エディションの最新刊『仏教の源流』(角川ソフィア文庫)はあいかわらずぼく自身の自己編集構成だが、インドと中国の仏教コンテツンツだけで1冊のページが埋まってしまい、ぼくの仏教感覚の突っぱり具合を出すのに苦労した。加筆と推敲を多めにしておいた。これで千夜エディションも20冊になり、角川側でささやかな書店フェアをやってくれるそうだ。◆ ウェブの千夜千冊についても、新たな変化がおこっている。これまで千夜の図版は松岡事務所の寺平賢司が中心になって構成してきたのだが、これからは編集学校の師範や師範代も加わることになった。ウェブ千夜はエディションとは異なって、図版が魅力のヴィジュアル・ブックナビゲーションなのである。◆ さて、話ががらりと変わるけれど、先だってまたしても肺ガンを宣告された。CTで見つかった。今度は左の肺上部の原発性の腺ガンのようだ。さいわいレベル1Aで転移もないようで、手術によってカンペキに除去できるらしい。いまはコロナ禍中の築地がんセンターでの手術日を待っている。渡辺俊一先生の執刀だ。さっそく順天堂のおしゃべり病理医の小倉加奈子ちゃんが肺機能を強化するトライボールZを持参してくれた。◆ それにしても二度目の肺ガンとは、なさけない。15年前の胃ガンを入れて3発目。父親ゆずりの体質だろうと思うことにした。半年に1回のCTで見つかったので、1年に1回の検査では危なかったかもしれない。◆ それはそれ、渡辺先生の助手から「タバコをやめないと手術が失敗しますよ」と警告されたので、しおらしく断煙の日々を続けているのだが、なんだか調子が悪い。ニコチン切れに困るのではなく、手持ち無沙汰というのでもなく、口さみしいといえば口さみしいが、ぼくの日々の基本プレイに出入りする何かが欠如したように思える。◆ 念のため説明しておくが、ぼくの喫煙は半世紀のあいだ一日も休まず続いていて、平均1日3箱ほどになっていた。強いタバコではない。最近はメビウスの1ミリ、その前はキャスターの1ミリ、その前は3ミリという程度だったのだが、ただ人前でも仕事中でもスパスパ喫っていたので、結局はバチが当たったのである。手術がおわったら、基本プレイに欠如したものを補う何かを発見しなければなるまい。ディエゴ・シメオネの闘いぶりや川口ゆいのダンシングに肖って。◆ そんなこんなで、勝手な読書三昧がしにくい1カ月だったのだが、なかでデヴィッド・クレーバーの『負債論』(以文社)、ジャン・ストレフの『フェティシズム全書』(作品社)の大著のほか、久々にガストン・バシュラールの著作を拾い読みした。これは「離」の方師、田母神顯二郎明大教授が、松岡さん、バシュラールはそろそろですかと促してくれたからだった。
2021・4・17(土)
◆ 77歳を迎えた数日後の宵の口から、松岡正剛事務所、編集工学研究所、イシス編集学校の諸君が「キジュ」をリアル&リモートで祝ってくれた。さすがに準備は万端、細工は流々、たいへん凝った趣向で、ヤキトリに始まり、あれこれの手を替え品を変えてのサプライズのあげく、後半は総勢数十人が次から次へ歌い継いでみせるという“We are the World”状態で、3密どころか5密なシングアウトに包まれた。たいへん愉快なひとときだった。◆ しかし、けれどもだ。宴のあとでしんみり考えた。やっぱり「キジュ」はどうみてもヤバいのだ。これから仕上げられそうな「こと」や「もの」を想定してみると、どうみてもタカが知れている。砂時計に残された時間がないというのではない。数年前からじりじり感じてきたことなのだが、気力と体力のセッサタクマの案配がめっきりおかしくなっていて、これは「別のエンジン」を急がせなくてはいかんのである。ところがそのエンジンの開発がままならない。◆ すでに思いついていたり、着手してみたプランもほったらかしだ。そこには著書もあるし(5冊ほどの見当がある)、書画もあるし(仏画っぽいもの)、或る種のマザープランづくりのようなものもある。かつて着手しはじめた『目次録』などは何人もの諸君の助力を得ながら、放置したままになっている。◆ これはヤバい。キジュに乗っていてはまずい。本を書き上げることくらいならなんとかなりそうだけれど、ぼくの仕事はエディトリアル・オーケストレーションに向かっていくことだから、自分一人が書き手に甘んじていてはいかんのだ。そう、戒めてきた。編集オペラのようなもの、編集ページェントのようなもの、そっちに向かっていなければならなかったのだ。それが遅れている。◆ 「本のページェント」にする試みだけなら、図書街や松丸本舗や本楼や近大やMUJIブックスや所沢のエディットタウンなどにしてきたが、それらは世の中での「本」の扱いが静かすぎるので、いろいろ制約が多かった。そこで連塾や織部賞やトークイベントのステージなどでは、そこに音や映像やナマのゲストの出入りを加えたけれど、まだまだなのだ。◆ そういう不足感を払底するために、15年ほど前から考えていた不思議なマザープランがある。「故実十七段」とか「次第段取一切・故実日本流」と呼んでいるもので、従来の歴史的な試みで喝采を送りたいもの、たとえばディオニソス祭や修道院立ち上げや人形浄瑠璃の成立や、ライプニッツのローギッシュ・マシーネや天体観測装置やファッションショーやムンダネウム計画や、あるいは賭博・競馬・バザールやスペクタクル映画やアニメの傑作などの制作成果を、都合100~150例ほどトレースしながら思いついたことで、これらを複合的な世界装置開展のためのマザープランにしてみようとしたものだ。◆ マザープランのドラフトはあらかたできているのだが、これをどうみなさんに開示したり実現したりしていけばいいのか、そこは手つかずだ。先だって、やっとその小さなキックオフをした。追々、どんなふうになりそうなのか報告したいと思っているけれど、これもやっと腰を上げたばかりなのである。◆ そんなこんなで「キジュ」はヤバいのだ。もっと深刻なことを言うと、ほんとうはもっと本を読みたいし、読み替えていかなければいけないことが溜まっていて、うっかり千夜千冊などというリテラル・ナビゲーションをルーチンにしたため、自分が考えたり感じたりしていることが、読んだ本の紹介や案内ではカバーしきれずに、いちじるしく非対称になってしまっていて、このフラストレーションこそ、実はもっとヤバいことなのである。好きなときに好きなことを書くようなジンセーにしておけばよかったのに、なんだか律義な責任のようなものをつくりすぎたのだ。◆ それでも諸姉諸兄からしたらいささか意外に思えるだろうことも、実は着々とやってきた。これらについてはぼくの生命時間を超えてしてきたことなので(死後にもわたって継続できるようにしてきたことなので)、いつかその中身が他人の手でリリースされるかもしれないけれど、それがどういうものであるかはぼくからは説明できない。僅かにリークできるのは、そのひとつ、イシス編集学校の「離」で十数年にわたってコツコツ進行してきたことで、これはとても大事にしてきた。毎期、限られた参画者(30人)にしか読めない1500枚ほどのテキストを、ずっと書き換えてきたのである。どういうテキストかは説明できないが、世界観共有学習のための「穴空きプロトコル」のようなものだ。◆ もうひとつ、ぼくが仮想思考してきたことを綴っているものがある。仮想思考だから、アタマの中やメモの中やPCの中でだけ、アーキテクチャをもっているものだ。これはおそらく「生前贈与」をしたほうがいいかもしれないので、そのうちその一部をリークしようかと思っている。以上、キジュに因(ちな)んだヤバめのお話でした。
2021・3・1(月)
◆ 巷間、コロナ本がいろいろ出てきたが、なかで去年刊行の美馬達哉の『感染症社会』(人文書院)がよくできていた。この著者(立命館の医療社会学者)は2007年の『〈病〉のスペクタクル』(人文書院)で抜群の洞察力を示していたが、今回も渋くてすばらしかった。なぜCOVID19でこれほどの社会混乱が生じたか、痒いところを掻くように書いてくれた。◆ コロナ関連本はこれまでも10冊以上を紹介してきたが、ほかに言い忘れていた本があったので紹介しておく。21世紀前半のものでは、ポール・ラビノウの『PCRの誕生』(みすず書房)、アルフレッド・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ:忘れられたパンデミック』(みすず書房)、カール・タロウ・グリーンフェルドの『史上最悪のウイルス:そいつは、中国奥地から世界に広がる』(文芸春秋社)、ローリー・ギャレットの『崩壊の予兆:迫り来る大規模感染の恐怖』上下(河出書房新社)など。◆ 最近のものでは堀井光俊『マスクと日本人』(秀明出版会)、木村盛世『厚労省と新型インフルエンザ』(講談社現代新書)などだ。ちなみにぼくの病気論はずっと前からルネ・デュボスの『健康という幻想』(紀伊国屋書店)にもとづいている。デュボスは抗生物質の発見発明者だが、晩年に向かってすばらしい病気論を開陳した。病気とはエンビオスの神が動かなくなること、すなわちインスピレーションを欠かせることなのだ。◆ ところで、このところフェティシズムの本を読み漁っているのだが、これはぼくの周囲に「フェチが足りない」などと言っているのに、どうもその意図が伝わらないようなので、こちらもベンキョーしなおそうと思ったからだ。マルクスの物神論とフロイトのフェティッシュ論、あるいはド・ブロスやラトゥールではまにあわない。そこで田中雅一の「フェティシズム研究」3冊本(京都大学学術出版会)を下敷きにすることにした。『フェティシズム論の系譜と展望』『越境するモノ』『侵犯する身体』だ。ただ、フェチの驚くべき底辺の歴史と実情が重要なので、こちらはジャン・ストレフの分厚い『フェティシズム全書』(作品社)と川島彩生が編集構成したフェチ愛好家のためのマニアックな『フェチ用語事典』(玄光社)で補っている。◆ マルクスとフロイトの予想とは異なって、フェチには普遍性などがない。そこが頼もしいところで、あくまで個人的個別的、かつ特殊関係的なのだ。そこでそのフェチに降りていって、そこに爆薬を仕掛ける。これが編集には必要なのである。◆ 今年になって田中優子さんとの対談本『江戸問答』(岩波新書)、千夜千冊エディション『サブカルズ』(角川ソフィア文庫)、米山・米沢が編集してくれた『うたかたの国』(工作舎)が刊行された。いずれもかなり読みごたえがあると思うけれど、自分の本が出るのは実はとても面映ゆいもので、とうてい「どうだ、やったぞ」などとは思えない。むしろ地味にほめたいものなのだ。◆ 書評や紹介などがあるには越したことはないが、それよりも、そうやって仕上げた本を、著者本人はどう思っているのかを聞く機会があるのがいいように思う。以前、自著について語る「自著本談」という企画、千夜千冊をぼくが朗読しながらところどころ解説する「一冊一声」という企画をネット上でしばらく続けたことがあるのだが、世間でもこういうものがもうすこしあってもいいのではないかと思う。◆ 本は版元と著者によって閉じすぎる。おまけに書店や図書館ではもっと黙りこくっている。いったん閉じてしまうと、なかなか緩まない。そこで当事者がセルフサービスをする。本の口をこじあける。詩人の朗読会は「黙って詩を読んでもらうより、ずっと読書が深まるもんですよ」と高橋睦郎さんが言っていたが、そうなのだろうとし思う。ただふつうの本は音読するには長いので、そこを著者や編集者がお手伝いするのだ。◆ 紅白歌合戦でYOASOBIが角川武蔵野ミュージアムの本棚劇場を特設ステージにして『夜に駆ける』を披露した。カメラはエディットタウンのブックストリートから本棚劇場に向かい、本に囲まれたYOASOBIを映し出した。このユニットはソニーミュージックの小説イラスト投稿サイトに登録された小説を素材に歌をつくっていくという仕組みから生まれた。『夜に駆ける』は星野舞夜の『タナトスの誘惑』から切り出されたデビュー作である。本がこういうふうに生身でボーカロイド化されるというのも、黙りこくっている本の口を割らせるいい方法だろう。かつてはトリスタン・ツァラもアポリネールも得意にしていたことだった。本は賑やかでお喋りなものなのである。
2021・1・29(金)
デイヴィッド・シルヴェスター
回想 フランシス・ベイコン
書肆半日閑 2010
David Sylyester
Looking Back at Francis Bacon 2000 2000
[訳]五十嵐賢一
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編集:山野麻里子 協力:石田俊
フランシス・ベイコンの絵は想像もつかないような具象画である。しかもほとんどが人物画だ。変形し、捩りあい、体が部分的に陥入し、ときに爛れて損傷さえおこしているようだが、ちゃんと靴をはき、室内の中心にいる。
DS「あなたの作品はサイズが決まっていますね。ほとんど全部が同じ大きさです。頭部は小さな絵、全身像は大きな絵。しかも全身像の頭の部分は小さな絵の頭部と同じサイズになっている」。FB「それは私の欠点です。融通がきかないんです」(1962)。
欠点とは思えない。「融通がきかない」という性格や資質がありそうなことは少しわかる気はするが、ではトリプティク(三連画)はどうして生まれたのか。あれは融通ばかりではないか。相互浸透ばかりしているではないか。
いったい、どんなふうに制作しているのかということも気になる。DS「連作は一枚ずつ描くんですか。それとも同時に描くのですか」。FB「一枚ずつです。一枚描くと、そこから次のイメージが浮かぶのです」。DS「そういう連作を一緒にしておきたいのか、それとも別々になってもかまわないのですか」。FB「理想をいえば、絵が全面に飾っている部屋の絵を描きたいんです。中の絵は主題がそれぞれ違うのだけれど、連続していると見なせます。私には、絵で埋めつくされた部屋が見えます。スライドを見ているように、そうした部屋が次々に現れます。一日中でも絵画の部屋の白昼夢を見ていられますが、思い浮かんだイメージをそのまま描けるかというと、話は別です。そのイメージが消えてしまうからです」(1962)。
こんなふうにも言っている。「僕は自分の絵が、あたかも独りの人間が僕の何枚もの絵の間をカタツムリのように、人の存在の跡と過去の出来事の跡をうしろに残しながら通りすぎたかのように見えるといいと思っているんだ。カタツムリがその粘液の跡を残すようにね」(1955)。
FB: 僕はあらゆるイメージをいつも移動しながら見る。ほとんどシークエンスを移動させながら見るんだよ。そのイメージを見る者が、ずっとずっと遠くの地点に行けるようにね。
画像上から《ヘンリエッタ・モラエスの肖像三習作》(1963)、《T・Sエリオットの詩「闘技士スウィーニー」に想を得たトリプティク》(1967)、《トリプティク―1973年5―6月》(1973)。(新潮社『フランシス・ベイコン』より)
学生時代にフランシス・ベイコン(FB)の作品群に腰を抜かし、ああ、これしかない、よほどのものだ、これほど西洋が抱えこんだ美術の様式の可能性と限界に、内側から挑戦した真剣な試みはないと確信してから、二つのことが気になって困った。ひとつは、どんなふうにトリプティク(三連画)を発想したのかといこと、もうひとつは、ベラスケスの《教皇インノケンティウス十世》をあれほどいじりたくなったのはどうしてかということだ。
いまではだいたいのことが得心できた。デイヴィッド・シルヴェスター(DS)のおかげだ。今夜の千夜千冊も、1975年から87年にかけてDSがまとめた驚くべきインタヴュー集『肉への慈悲』(小林等訳・筑摩書房)と、FBが1992年に心臓発作で亡くなったあと、いわば親友をめぐる集大成としてDSがまとめた『回想 フランシス・ベイコン』(書肆半日閑・三元社)のお世話になる。
ベイコンについては、ほかにもミシェル・アンシャンボー『フランシス・ベイコン 対談』(三元社)、マイケル・ペピアット『フランシス・ベイコン』(新潮社)、ジョン・ラッセル『わが友フランシス・ベイコン』(三元社)、ジル・ドゥルーズ(アツギ アスティーグ 素肌感を極めたストッキング アツギ アスティーグ 肌 素肌感 パンティストッキング レディース 女は脚で嘘をつく メール便(5) ATSUGI ASTIGU )の『感覚の論理:画家フランシス・ベーコン論』(法政大学出版局)、アンドリュー・シンクレア『フランシス・ベイコン:暴力の時代のただなかで、絵画の根源的革新へ』(書肆半日閑)といった興味深い本もあるので、ときおり参考にする。ただしなぜか、日本人の言及物ではめぼしいものに出会ったことがない。
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FB:人物の人間性はあくまで外見を通じて現れるものさ。人間の外見がその人間性を裏切ることはままあるけど、一般的に言って、人間の性格は、かなりの確率で、外見から分析できると思う。描けるのは外見の肖像画だけさ。
画像は《自画像のための習作―トリプティク》(1985)中央画とベイコン。
FB:雑談としたアトリエにいると、くつろげるのです。この乱雑さからインスピレーションを得られますから。仮にここから出なくてはならなくなって新しい部屋に移ったら、その部屋も一週間で乱雑にしてしまうでしょう。
画像は、ダブリンのヒューレーンギャラリーに寄贈したベイコンのスタジオ。
「芸術家はふつうの人間とちがって幼年時代から遠ざからない」とベイコンは言っていた。1909年のアイルランド東部のカラッハで生まれ育った幼年時代のFBは、自分のことを弱虫だと思っていたようだ。
よくいえば夢見がちで繊細なのだが、子供にしてすでに意地っぱりでモノラルな思いで周囲や世の中を見ていたから、それにとんでもなくシャイでもあったので、その夢見がちのアタマの中あるヴィジョンはどうしても歪んでいるものになっていたようである。小児喘息でもあった。ほとんど学校に行かず、何人かの家庭教師から勉強を教わっていたのも、FBを独りごちが好きな思い込み年にしたかもしれない。
そうしたことと絡んでいるのかどうかはわからないが、なんといってもベイコンはゲイだった。ゲイのアーティストはコクトー(912夜 )からウォーホル(1122夜 )まで、セシル・ビートン、デレク・ジャーマン(177夜 )、メイプルソープ(318夜 )、キース・ヘリングなど、めずらしくはないほど多いけれど(作家、音楽家、ファッションデザイナーにはもっといる)、FBほど、そのゲイ感覚が触覚的なマチエルに至っていた画家はいないように思う。ただしこれはぼくの勝手な見方だから、アテにはならない。
FBは自分が男の子か女の子かがずっとわからず、思春期には母の下着を身につけているところが見つかって父にこっぴどく叱られたのがショックだったらしい。だから父のことが嫌いだったのだが、「若い頃はその父に性的に惹かれていました。最初それに気づいたときは性的なものだということがよくわからず、のちに厩舎の馬丁たちと関係をもつようになってやっと、父に対して性的なものを感じていたのだとさとったのです」。
大胆で病的で、ときに暴力的にも見える作品が話題になってからは、FBがゲイであることはすっかり知られ、5人の恋人のこともことこまかなことまで、わかっている。
ベイコンの恋人やモデルたち。(『フランシス・ベイコン』)
右上の写真は、ベイコンの恋人でもあり中心的モデルとなったジョージ・ダイアー。ダイアーはベイコン宅に盗みに入ったところをベイコンに発見され、そのまま恋人となる。1971年の「フランシス・ベイコン展」初日前夜にベイコンと宿泊していたホテルで自殺した。
《トリプティク1972年8月》(1972)は、ダイアー死後に描かれた作品で、ダイアーから生命が流れ出ている様が描かれている。(画像は本書より)
ベラスケスの《教皇インノケンティウス十世》については、ベイコンは絵描きになろうとむずむずしていたごくごく初期から、美術史上最高の傑作肖像画だと思っていた。
このことはしかし、(1)数ある画家のなかでベラスケスはとびきり凄い絵が描ける、(2)教皇は何か根本的なことを訴える象徴的な存在だ、(3)そもそも肖像画は何かを秘めている様式なのだろう、この3つのことをまぜこぜにして感嘆しているものである。
(1)は一番すなおな感想だが、ディエゴ・ベラスケスの抜群の技法がFBを襲ったことを伝える。近づいて見るとやや荒々しい筆のタッチが目立つのに、少し離れるときわめて写実的な衣服の襞になる。マネらの印象派たちが驚嘆した魔法のような技法がFBを疼かせたのである。ベイコンが油彩にこだわりつづけ、絵の具のフェチにはまったのは、ベラスケスのせいだった。
(2)には、教皇が座っている椅子や結界の構成力に脱帽したことと、そこから発揮されているオーラをFBが浴びたことが含まれる。FBはこの絵をモノクロ写真で見て、その後もこの絵を収録した何冊もの画集を手に入れているだが、そこには神々しいほどの放出力が感じられたようだ。これらのことは、のちのちまでFBに「椅子に座って何かを発する」という構図と、そこからはエクトプラズマ(!)のようなものが流出していてもいいんだというモチーフに、自信をもたせた。FBには教皇や磔刑を描いたからといって、そこにはなんら宗教性はなかったのである。
(3)はFB自身がゴッホやピカソ(1650夜 )の肖像画にぞっこんだったことに、あきらかに結びつく。肖像画はFBの美術根本で全然アートの全容が入りうるものなのである。もうひとつ、ここには自画像とは何か、写真によるプロフィールとは何かという大問題が含まれる。とくに「表情」だ。「肖」の問題だ。FBにとって、ムンクもエゴン・シーレ(5500円以上で送料無料! JUKI職業用 端縫い押え(ジューキ ミシン針 キルト アタッチメント 太さ 種類 針 ニット HA DB 厚地 薄地 普通地 工業用 職業用 家庭用 ミシン JUKI ジューキ ハンドメイド シンガー)おさいほう屋 )も、エイゼンシュタインやブニュエルの映像表現も、自分が油彩画に引き取って責任をとりたいテーマだった。ついでながら、のちにライバル関係ではないかと噂されたデ・クーニングの肖像画表現については、FBは決してうっかりしたことを言わなかったけれど、実際には対抗意識もあったはずである。
しかし、ベイコンは意外な告白もしている。DS「ベラスケスの教皇の絵にとりつかれたのは、やはり個人的な意味合いが強かったのでしょうか」。FB「あれは世界で最も美しい絵のひとつですから、とりつかれる画家はいくらでもいると思いますよ」。DS「でも、あの絵をモチーフにしてくりかえし絵を描いた画家はほかにいません」。FB「描かなけれはよかった。教皇が叫んでいる絵は、思ったように描けませんでした」(1971)。えっ、あれじゃ不満だというのか。もっとキリスト教の奥のグノーシスにまで行ってみたかったのか。
FB:ヴァン・ゴッホは常に誰よりも重要な存在だ。彼はリアリティを表現する新しい方法をほんとうに発見したんだ。この上なく単純なものに対する表現法も含めてね。
画像上から《ヴァン・ゴッホの肖像のための習作Ⅵ》(1957)、下はヴァン・ゴッホ作の《仕事に向かう画家(タラスコンへの道)》(1888)。(『フランシス・ベイコン』)
FB: 教皇は特殊な存在ですね。教皇であることによって、特殊な立場に置かれています。そしてそのために、大悲劇の登場人物のように壇上に上げられ、世界中に重々しいイメージを誇示しているのです。
画像上から《ベラスケスの「教皇インノケンティウス10世の肖像」に基づく習作》(1953)、下はベラスケス作《教皇インノケンティウス10世の肖像》(1650)。(『フランシス・ベイコン』)
FB: エイゼンシュタインにはまるで歯が立たない。いつかは自分も叫んでいる人間の最高の絵を描きたいと思った。その望みは達せられなかった。
画像はエイゼンシュタイン『戦艦ポチョムキン』(1925)の叫ぶ女。
フランシス・ベイコンの絵は想像もつかないような具象画である。しかもほとんどが人物画だ。変形し、捩りあい、体が部分的に陥入し、ときに爛れて損傷さえおこしているようだが、ちゃんと靴をはき、室内の中心にいる。
こんな絵はゴッホにもなかったし、ボッチョーニの力動学的な関与でもない。デュシャン(57夜 )の《階段を降りる裸体》ではないし、モディリアニやジャコメッティ(500夜 )のように細長くなったのでもない。カンディスキーやクレー(HORIZON LAMP/ 専用シールド )のように造形的な抽象に変じたのでもない。
DS「抽象画を描きたいと思ったことはありますか」。FB「いえ、描きたかったのは具体的フォルムです。最初期の《磔柱の下の人物三習作》を描いたときからそうです。あの絵は20年代終わりのピカソの絵に影響されています」。次の説明がギョッとする。「絵画表現におけるまだ手付かずと言ってもいい領域全体を示唆しているように思われる絵です。人間の姿に近いが、徹底的にデフォルメされた有機体のフォルムという領域です」(1962)。
けれどもピカソはそこまで描けなかったのではないか。それかあらぬか、こんなふうにも言う。FB「私が自分で制作したいのは、たとえば肖像画でありながら、いわゆる写実という観点からすればモデルとはなんの関係もないフォルムから生まれた絵です。つまりデフォルメされているにもかかわらず姿かたちを表現している絵です。私にとって現代絵画が直面している謎とは、姿かたちをどのように描けるかということです」。DS「あなたは姿かたちに関する常識的な見方にできるだけ左右されないで、その姿かたち描こうとしていますね」。
FBが答える。「姿かたちとは何か、あるいはどうあるべきかについては基準が確立していますが、姿かたちの描かれる過程が不思議であることはたしかです。偶然の一筆を加えたために、突如として常識的な描き方では表現できないような生き生きとした姿かたちになることがあるからです。私はいつも偶然を利用してデフォルメし、再構成した姿かたちを描く方法を見つけようとしています」。DS「もとの姿かたちとは決定的にちがうのですか」。FB「そうです。仮にも絵がうまくいったとしたら、それはモデルと異なる、誰もが知らない姿かたちを描くことによって、ある種の神秘が生じたからです」(1973)。
FB:僕は畜殺場と肉の画にずっと心を惹かれてきたし、僕にとって、それらは『磔刑』全体に属するものなんだ。
画像上から《ある磔刑の足元の人物たちのための三つの習作》(1944)、下は《1944年のトリプティクの第2ヴァージョン》(1988)。(『フランシス・ベイコン』)
ここには、けっこう大きな二つの仮説が出入りする。第一には幼児が家族や友達や先生を描くときに、どんな「姿かたち」にしているのか、したくなるのかということ、第二に美術史はどうして神々やキリストの「姿かたち」にモデルを使わざるをえなかったのかということ、この二つが投げかけてきた問題が出入りする。
「肖像」とは「像に肖(あやか)る」ということであるが、それは実物に肖るというのではなく、その像に肖つてきたわけなのだ。フランシス・ベイコンはこの「像」に肖るという大問題の渦中に、なぜか最初から最後までかかわってしまったのだ。
2013年3月~5月期、東京竹橋の近美で開かれた「フランシス・ベーコン展」で、ぼくはぞくぞくするほど嬉しくなっていた。二度行った。こんなふうになったのは久しぶりのことで、「よし、よしっ。これ、これだっ!これしかない!」と胸中でガッツポーズをしている自分に呆れるほどだった。いや、ときどき実歳にも小さく拳(こぶし)を握ったかもしれない。
ペーター・ヴェルツとウィリアム・フォーサイスがオマージュを捧げたダンス映像と、土方巽の昔の舞台映像が投影されていたのが言わずもがなで、多少気分が殺がれたけれど、それでもこんなに気分が高揚できたのが自分でも恥ずかしいくらいだった。
こうなると、意中の恋人にずらりと囲まれたような体験をしたようなものだから、そのぞくぞくの理由をあれこれ説明することはとても筆舌に尽くしがたく、案の定、ベイコンを千夜千冊するのにも7年も着手できなかったのである。しかしいまになって、あらためてあの会場でガッツポーズをする気になったことのなかで、もしその恋人(すなわちFBの絵画作品群)に何かが欠けていたら、ぼくはそこまで唸らなかったかもしれないということについて、一言だけふれておきたいと思う。
絞って、三つある。ひとつは肖像を咆哮させ、肉体をねじ曲げ、これを背景とのコントラストの中に設置したことだ。これはミシェル・セール(1770夜 )の「フォーマット」や「アクシス」になっている。つまり洞窟画以来の原点タブローを保証した。
二つ目はやはりのこと、トリプティクのすばらしさだ。三連画の圧倒的なプレゼンテーションの力は、ともかく鬼気迫る。見る者を深く沈ませる。そのパノラマ性はデュシャン(57夜 )の「大ガラス」が匹敵するが、大ガラスは一作だけである。レプリカはあるが、デュシャンはあの様式を連打しなかった(できなかった)。ひょっとして日本美術でいえば浮世絵のフレームや「誰が袖屏風」の六曲一双がもしやとは思うけれど、まあ、ベイコンには並ばない。けれども、この二つのことについてはずっと前から感服していたことなので、当日の会場で唸りを上げたわけではない。
三つ目は、ベイコンが絵画の中に描いている枠や囲みの線だ。あれは意中の恋人のリボンやパラソルや、恋人が見える窓枠や彼女が乗ってきた自転車みたいなもので、ぼくがベイコンに唸るにはどうしても必要な描線であったと思えたのである。
ベイコンはDSに促されて、こんなふうに説明する。FB「あの枠を使ったのは、主題を見てもらうためです。それだけなんです。ほかにもいろいろ解釈されているみたいですが、ああいう四角い枠を描いて、カンバスを小さくしたのと同じ効果を出したのです」(1962)。いや、それだけではあるまいとDSが追い打ちをかける。DS「なんらの意味をもたせようとしたことは、一度もないわけですね」。FBが答える、「ええ、ひとつひとつの絵を切り離しているのです。そして絵と絵のあいだに物語がしょうじるのを妨げています」。
そんなことだけではないはずだけれど、本人がそう言うのだから、まあ、いいだろう。しかしぼくは、あの白や黒や濁色の線に次々に出会っているうちに、ガッツポーズの拳を握ったのである。
FB: 僕はあの長方形のなかに描くことによって、キャンヴァスのスケールを切り詰めるのさ。人物の姿に集中させるために。
画像は左から《肖像のための習作》(1949)、画像左は《無題(人物)》(1950)。(画像は本書より)
少々、付け加えておきたい。無作為な順番で書いておく。とても順を追ってはベイコンは語れない。
(A)デッサンと写真についてのことだが、ベイコンはデッサンや下描きをしないと言われてきた。またたいていの作品に写真からの転用をしてきた。これについては、「私の心の中ではミケランジェロとマイブリッジが混じり合っているのです」(FB1974)が回答だ。ベイコンはミケランジェロの彫刻には感心していないが、あのデッサンには参っている。マイブリッジの連続写真はベイコン生涯の宝物だった。
(B)ベイコンはいつも自分の絵には「偶然の介入」がおこっていると主張してきた。なぜ偶然の介入がベイコンに必然をもたらすのか。これについてはこう言っている。FB「純粋だからです。偶然にできたフォルムで大切なのは、それがより有機的で、また、より必然的な効果をもたらすように思えるという点です」。DS「純粋? それが鍵ですか」。FB「そうです、意志が直観に圧倒されている状態です」(1974)。
(C)ベイコンの生活態度については、ずっと以前から周囲が訝っていた。放蕩そのものではないが、投げやりだし、無策のように見えるのだ。そこでDSが切り出す、「あなたはたいしてお金を持っていないのに惜し気もなく使っていましたが、いっときの間にお金に困ることはなかったのですか」。FBがいろいろ答える。「金のなかったころはよく、盗れるものは盗っていました。盗みとかそういうことをしても良心の呵責をまったく感じないんですよ」。「不公正は人生の本質だと思います」。「ゆりかごから墓場まで国の世話になると、人生はひどく退屈なものになってしまいますよ」。「芸術を生み出すのは苦痛や個人差であって、平等主義ではないと思います」(1974)。
(D)仕事ぶりについても、多くの関心が寄せられていた。こんな対話がある。DS「昔はよく長期休暇をとっていましたよね」。FB「いまは息抜きは必要ありません。本当のところ、誰も息抜きなんて必要ないんです。休息をとらなくてはいけないというのは、たんなる固定観念です。まあ、つまるところ、私は休日が嫌いなんです」。DS「制作に夢中になっていると、それが日時用生活における恋愛に影響しがちだと感じたことはありますか」。FB「逆です。恋愛のほうが絵の制作に影響を与えます。私はどんな場合にもリラックスできない人間なのです」。
FB: 写真にうつった姿を通して私はその被写体のイメージに入っていき、そこからリアリティーとみなしたものを明るみに出します。そのほうが実際に対象を見るよりうまくいくのです。それに写真は制作の土台を示してくれるばかりではなく、アイデアがひらめくきっかけとなることもよくあります。
画像は人間の動きを記録しようとしたマイブリッジの『動く人物』。(ちくま学芸文庫『フランシス・ベイコン・インタヴュー』より)
まだまだ、この勝手きわまりないのに、西洋美術の本質を見抜いた男の心得集紹を介したいけれど、このくらいにしておく。では最後にシルヴェスターがまとめたFBの好みの一覧をお目にかけておく。かなり納得できる。
芸術の好み。エジプト彫刻。マザッチョ。ミケランジェロ、なかでもおそらくデッサン。ラファエロ。ベラスケス。レンブラント(1255夜 )の肖像画。黒い絵ではないゴヤ。それからターナー(1221夜 )。コンスタンブル。アングル。マネ。ドガ、ゴッホ。スーラー。ピカソ(1650夜 )、とくにシュルレアリスムに近いピカソ。デュシャン、なかでも「大ガラス」。ジャコメッティのデッサン。
文学の好み。アイスキュロス。シェイクピア(600夜 )。ラシーヌ。オーブリーの『小伝』、ボズウェルの『ジョンソン』。サン・シモン。バルザック(1568夜 )。ニーチェ(1023夜 )。ゴッホの手紙。コンラッド(1070夜 )の『闇の奥』。フロイト(895夜 )。プルースト(935夜 )。イエーツ(518夜 )。ジョイス(1744夜 )。エズラ・パウンド。エリオット。ミシェル・レリス。アルトー。コクトー(912夜 )は好きだが、オーディンやシュネ(346夜 )のようなホモセクシャルな作品は大嫌い‥‥。
なるほど、なるほど。ターナーと『闇の奥』が入っているのが、諸君、ベイコンならずとも決定的なのである。10月刊行予定の千夜千冊エディション『全然アート』で確かめられたい。
FB:重要なのはひとえに何かができるということなんだ。もし自分にとって意味のあることが生きている間にできれば、それをどうやるとか、どの分野でやるとか、そんなことはどうでもいいんだ。自分の人生に意味を与えること自体が既にたいへんまれなことになってしまっているし、それができたら最高なんだよ。
画像は本書より《自画像のための習作―トリプティク》(1985)。ベイコンが描いた唯一の全身像の自画像のトリプティクである。82歳まで生きたベイコンは、晩年は多くの友人に先立たれ、自画像を描くことも多かった。
(図版構成:衣笠純子・太田香保・寺平賢司・上杉公志)
⊕『回想 フランシス・ベイコン』⊕
∈ 著者:デイヴィッド・シルヴェスター
∈ 訳者:五十嵐賢一
∈ 編集:山野麻里子
∈ 協力:石田俊二
∈ 発行:書肆半日閑
∈ 発売:三元社
∈ 装幀:
∈ 印刷・製本:Hing Yip Printing Co.Ltd.)(中国)
∈ 発行:2010年
⊕ 目次情報 ⊕
∈∈ まえがき
∈ 見直し
∈∈ 晩生
∈∈ 人間存在の行跡
∈∈ 不安状態
∈∈ 一人の人間の脈搏のすべて
∈∈ シリーズとしてのイメージ
∈∈ 感情からの脱出
∈∈ 絵であって、絵ではなく
∈ 思うことども
∈∈ 媒体としての画家
∈∈ ベイコンと詩
∈∈ ベイコンとジャコメッティ
∈∈ ベイコンの密かな悪癖
∈∈ 人体のイメージ
∈ 話の落ち穂拾い
∈∈ 彼自身
∈∈ テーマと拠りどころ
∈∈ 過去の芸術
∈∈ 近代の芸術
∈∈ 美学
∈ 伝記ノート
∈∈ 書誌
∈∈ 掲載図版一覧
∈∈ 索引
⊕ 著者略歴 ⊕
デイヴィッド・シルヴェスター(David Sylyester)
1924年、ロンドン生まれ。美術評論家。執筆活動およびキュレーターとしての展示企画を通してアルベルト・ジャコメッティ、ヘンリー・ムーア、ルネ・マルグリットからフランシス・ベーコン、ルシアン・フロイドにいたる20世紀の重要な芸術家の作家評を確立。著書に『肉への慈悲——フランシス・ベイコン・インタヴュー』(小林等訳、筑摩書房1996/ちくま学芸文庫2018)、『ジャコメッティ 彫刻と絵画』(武田昭彦訳、みすず書房2018)、『回想フランシス・ベイコン』(五十嵐賢一訳、書肆半日閑2010)など、
⊕ 訳者略歴 ⊕
五十嵐賢一(いがらし・けんいち)
1943年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。フランス文学専攻。訳書にミシェル・アルシャンボー『フランシス・ベイコン 対談』(三元社、1998)、フィリップ・ソレルス『フランシス・ベイコンのパッション』(三元社、1998)、ディディエ・アンジュー、ミシェル・モンジョーズ『フランシス・ベイコン―離種した人間の肖像』(書肆半日閑、2000)、フィリップ・ソレルス『セザンヌの楽園』(書肆半日閑、2001)、フィリップ・ソレルス『ピカソ、ザ・ヒーロー』(書肆半日閑、2002)、アンドリュー・シンクレア『フランシス・ベイコン―暴力の時代のただなかで、絵画の根源的革新へ』(書肆半日閑、2005)、イェルク・ツィンマーマン『フランシス・ベイコン《磔刑》』(三元社、2006)、ディアドリィ・ベァ『サミュエル・ベケット―ある伝記』(三元社、2009)、デイヴィッド・シルヴェスター『回想 フランシス・ベイコン』(書肆半日閑、2010)。(2013年3月現在)